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いつ俺〜いつから俺ができないと錯覚していた?〜

学生ブロガー。大学院でプログラミングを専攻している。日本のプログラミング教育に疑念を抱く。

教える側と教わる側が意識すべきたった1つのこと

勉強

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大学院生になって人に教える機会が増えてきた。

その中で、今まで僕に教えてくれた方々のやり方が正しかったのか疑問に思うようになり、教わる側にも問題があることを再認識した。

 

今回は、教える側と教わる側が意識すべきこと、そしてそれを実践するためにどうしていくべきか話をしたい。

 

 

教える側と教わる側が意識すべきこと

教えるとは言うが、そもそも「教える」っていうことがおかしくないか?と思う。

「教える」っていうのは教える側が自分の知識をアウトプットしているだけのことだから。

それを教わる側が「理解」できなければ意味がない。

だからこそ、「教える」というのは教える側の傲慢とさえ言える。

 

本来、物事は教わるのではなく、学ぶものであるはずだ。

そのことを教える側も、教わる側も忘れてしまっているのではないか?

「教える」という間違いに、まずは気付かなくてはならない。

そして「学ぶ」ということをきちんと意識すべきである

 

学ぶということ

「学ぶ」というのは非常に難しいことである。

新たな知識を身につけるというのは、言うほど簡単なことではない。

知識を脳にinputするためには2つのステップがある。

「知る」「理解する」だ。

 

「知る」というステップ。

これは、教師となるなにかしらから知識をoutputしてもらうことで実現できる。

 

「理解する」というステップ。

ここでは、教師にoutputしてもらった知識を、自分の中にinputする。

このステップが難しい。

理解するまでの時間や、理解の度合いにも個人差ができてしまう。

 

1つ言えることは、この「理解する」ステップを教える側も教わる側も強く意識できていないということ。

例えば、大学の講義などは学生が理解しているかなどは関係なく進んでいく。

中学生の頃に塾に行っていた時にも感じた。

これは教師1に対して学生が多過ぎるのでいちいち確認できないというのが一番大きい。

 

また、学生側も理解できていないことを気にせずに講義を受けているというのが悲しい現実だ。

そのことについては、こちらに記事でも言及した。

 

www.ituore.com

 

教える側、教わる側がどちらも「学ぶ」ということを意識せずに進んでは教育の場とは言えない。

 

学ぶための循環サイクル

教える側は、決して自分の知識をoutputするだけになってはならない。

教わる側がきちんとinputできなくてはならない。

つまり、「学ぶ」ことができる場を用意する必要がある。

 

このためによいのは、対話形式だ。

教える側と教わる側の間で知識が循環する形である。

 

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  1. 教える側が知識をoutputする
  2. 教わる側は受け取った知識をinputする
  3. 教わる側はinputした内容を、教える側にoutputする
  4. 教える側が内容をcheckし、理解できているか確認する
  5. 理解できていなければ1に戻る

 

ここで重要なポイントが2つある。

まず、3番の教わる側のoutputと4番のcheckだ。

この時、受け取った知識を説明させることと、それを使った演習などを行うことの2つを行うのがよいだろう。

2重のoutputとcheckによって理解の度合いが上がる。

 

次に5番から1番に戻る時だ。

この時、理解できていないことを確認したわけだから、outputの形を変えなくてはならない。

同じことを繰り返しても理解できる可能性は低い。

教える側は、学んでもらうというスタンスでoutputの仕方を工夫するべきなのである。

 

教育の場がどうあるべきか

先ほどの循環の図は、実際には小学校や中学校などで行われている部分ではある。

教師が知識をoutputし、生徒がinputした上で問題を解き、教師がそれをcheckするというサイクルである。

 

ただし、3番の教わる側のoutputから4番のcheckから再びの教える側のoutputの間に時間がかかり過ぎている。

教わる側がきちんと理解できている場合には問題にならない。

教わる側が理解できていない時が問題となるのだ。

理解できていないまま、もしくは間違って理解したまま時間が経過したとき、2度目の循環で全くの0からスタートするのと同じになってしまうからである。

そのため、この循環はできる限り早く回すべきである。

よって、この場は少人数であるほどよい。

 

しかしながら、これは理想論であり学校という教育の場をこの形にするにはコスト的にも厳しいだろう。

個別指導塾などがこのような形式を徹底できるのがいいかもしれない。

もしくは、大学などで先輩、後輩間で自主的にこのようなことが行われれば、それは立派な教育の場と言えるだろう。

 

まとめ

今回は「教える」「教わる」ということについて自分の考えを語らせてもらった。

教える側も、教わる側も「学ぶ」ということが前提にあることを忘れなければ、教育の場がよりよいものになっていくはずだ。